細野晴臣が生み出してきた作品やリスナー遍歴を通じてそのキャリアを改めて掘り下げるべく、さまざまなジャンルについて探求する「細野ゼミ」。2020年10月の始動以来、「アンビエントミュージック」「映画音楽」「ロック」など全10コマにわたってさまざまな音楽を取り上げてきたが、細野の音楽観をより深く学ぶべく現在は“補講”を開講している。
補講8コマ目のテーマは「細野晴臣のビクター / SPEEDSTAR RECORDS期」。今年10月、SPEEDSTAR RECORDSから発表したアルバム7作品のアナログ盤が再発されたことを記念した企画となる。ゼミ生として参加するのは、細野を敬愛してやまない安部勇磨(never young beach)とハマ・オカモト(OKAMOTO'S)というおなじみの同世代2人。彼らが細野との接点が生まれた時期にリリースされた作品群について、あれこれ聞いてもらった。
取材・文 / 加藤一陽 題字 / 細野晴臣 イラスト / 死後くん
細野晴臣が再び歌い始めた理由
──今回は細野さんのビクター・SPEEDSTAR RECORDS期の作品に的を絞ったお話を、前編と後編に分けてお届けできればと思います。本稿で“ビクター期”と定義する作品はHARRY HOSONO & THE WORLD SHYNESS名義の「FLYING SAUCER 1947」(2007年)、「HoSoNoVa」(2011年)、「Heavenly Music」(2013年)、「Vu Jà Dé」(2017年)、「HOCHONO HOUSE」(2019年)までのオリジナルアルバム5作品です。「HOCHONO HOUSE」はつい最近の作品だと思っていましたが、もう5年以上前になるんですね。
ハマ・オカモト 早いですね。ライブ盤(2021年発売の「あめりか / Hosono Haruomi Live in US 2019」)などは出ているけれど。この連載の初期に「HOCHONO HOUSE」の話をしてますよね。安部勇磨の発言がきっかけだったという話を。
安部勇磨 何回も読み返してニヤニヤしてる(笑)。
ハマ 勇磨の功績だからね。
──「FLYING SAUCER 1947」の前のアルバムになると、「ナーガ」(1995年)までさかのぼります。12年も空いていて。
ハマ&安部 ええええ!
細野晴臣 そんなに前なんだ。何やってたんだろう?
──2005年に映画「メゾン・ド・ヒミコ」のサントラ盤を手がけられたりしていましたね。というわけで、まずは12年ぶりのオリジナルアルバムとして大いに話題になった「FLYING SAUCER 1947」について伺っていきましょう。制作時、細野さんはどんな気分だったのでしょうか。
細野 2005年に「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」(※埼玉県狭山市狭山稲荷山公園で行われたイベント)に出たのがきっかけになったんだ。それまではアルバムを出すなんて考えていなかったんだよ。第二の故郷とも言える狭山の人たちが主催したイベントだったから、「こりゃ出ないといけないな」「狭山で作った『HOSONO HOUSE』の曲をやらなきゃな」と思ってね。で、いっぱいリハーサルしたんだ。ひさしぶりに歌を歌ったから、声が枯れて出なくなっちゃったのを覚えているよ。
──このとき、細野さんは東京シャイネスというバンドを率いて出演されました。その東京シャイネスを発展させたのが、「FLYING SAUCER 1947」のワールド・シャイネスで。
ハマ 東京シャイネスのメンバーは?
細野 鈴木惣一朗と浜口茂外也、高野寛。その時から(高田)漣くんもベースの伊賀(航)くんもいたね。あとは弦楽器奏者の三上敏視。
ハマ 当時はライブをやってなかったですよね?
細野 やってない。しかも、それまではずっとアンビエントをやっていて、インストばかり作っていたでしょ? 歌うことも全然考えていなかった。でも、とにかく狭山で「HOSONO HOUSE」の曲をやらなきゃいけないという義務感が強かった。だから、1回だけだと思っていたの。
安部 歌ってみたら、楽しいと思えたんですか?
細野 いや、ちょっとつらかったよね。声が出ないから。
ハマ 「ハイドパーク~」を終えて、歌うことはしんどかったけど、その後も歌い続けてみようと思ったんですね。
細野 確か、フェスのギャランティが少なかったんじゃないかな(笑)。実際のところは知らないけれど、僕は勝手にそう思ってて。それで「バンドメンバーにもっといい思いをさせなきゃ」ということで、もう1回ライブをやろうと思ったんだ。九段会館でやったね。それでおしまいにしようと思ったら、また手を挙げてくれる人がいて、今度は福岡の大学のホールでもやって。するとまたライブに声がかかるようになった。それがいまだに続いてる(笑)。
ハマ そのうちに、「『HOSONO HOUSE』の曲だけやるのもな」って気持ちになっていったんですか?
細野 そうだね。ライブをやっていると声が出るようになって、それから昔の曲をカバーしたりして。そのうちだんだん楽しくなってきたんだね。
伊藤大地はキラキラしていた
ハマ ビクター期の作品には細野さんのルーツミュージックのカバーがたくさん収録されていますけど、それに至るまでに「ハイドパーク~」からの流れがあったんですね。
細野 ガラッと変わったのが、日比谷野音のライブに出たとき(※2007年7月28日、日比谷野外大音楽堂にて開催されたトリビュートライブ「細野晴臣と地球の仲間たち“空飛ぶ円盤飛来60周年・夏の音楽祭”」)。
──細野さんの還暦を記念したイベント。
細野 そうそう。あのとき、当時SAKEROCKの伊藤大地くんがドラムで参加してくれて、ものすごく張り切って叩いてくれたんだ。それでね、なんか自分の音楽が生き生きと生まれ変わったように感じたんだよ。
ハマ すごくいい話ですね!
安部 そこで新しい音楽の形を見つけたって感じなんですね。
ハマ 大地さんがバンドに入るまでは、どういう流れだったんですか?
細野 それが、経緯がわからないんだよ(笑)。
ハマ ええ?(笑) 今振り返ると、のちに大地さんと同じSAKEROCKの星野源さんと交流を深めていくこと含め、なんらかの文脈があったんでしょうね。
細野 今にして思えばそうなんだけど、当時は行き当たりばったりだったから。星野くんにも「ハイドパーク~」で初めて会ったんだよ。SAKEROCKのギタリストとしてね。彼はまだ20代だった。
ハマ でも、すごくいい話。そんなこと言われたら、大地さんも本当にミュージシャン冥利に尽きますよね。細野さんとしては、どのあたりに大地さんの気合いを感じられたんですか? 曲を理解する姿勢とか、そういうところですか?
細野 理屈抜きで、音が跳びはねている感じがしたんだよ。リズムの感じがすごくいいんで、こっちも新しい気持ちになるんだ。つまりノっちゃうわけだね。「若いな~」と思った。
ハマ 大地さんって僕らからすると冷静な印象がありますけど。
安部 クールな先輩って感じだよね。細野さんは、大地さんが何者かわからない状態で一緒にスタジオに入ったんですか?
細野 いや、さすがにスタジオで「はじめまして」ではなかったと思うけど(笑)。でも、深くは知らなかった。
──当時は大地さんもとてもお若いですから、緊張していたでしょうね。
細野 緊張と言うよりも、目がキラキラしてたね。“ギラギラ”じゃなくて、“キラキラ”ね(笑)。そこがよかった。
ハマ 死後くんに目がキラキラしてる大地さんのイラストを描いてほしい。
──その後、漣さん、伊賀さん、大地さんは細野さんのバンドメンバーとして固定されていきます。
細野 そうだね。「FLYING SAUCER 1947」は狭山組が多かったけれど、その後のビクターで作った作品はそのメンバーが中心だね。
──バンド名のようなものはないにせよ、細野さんのキャリアで最も長く一緒にやったバンドになりましたね。
ハマ ポール・マッカートニーのWingsみたい。The Beatlesよりも長い。
細野 そうそう。はっぴいえんどより長いし、YMOよりも長くなって。ずっと続けるはずだったんだけど、パンデミックで全部の活動が途切れてしまった。そこからあのメンバーと会う機会がなかなかなくて。
ハマ 最近は違うメンバー(原田郁子、角銅真実、Chappo、海老原颯)でライブをやられてますよね。
細野 そうなったね。それも成り行きだけど。
ハマ なんか不思議。大地さんに会うと「細野さん、元気?」って言われるんですよ。
細野 大地くんは元気なんだよね?
ハマ はい。相変わらず電車にいっぱい乗ってるみたいです。
細野 へえ、いいね。彼はぶどうマニアでもあるんだよ。「その品種は皮ごと食べなきゃダメです」と言われる(笑)。
一同 (爆笑)。
「10年後が楽しみだね」に込められた真意とは
──かねてより「バンドを辞めるのが趣味」と発言されていた細野さんですが、漣さん、伊賀さん、大地さんとの“バンド活動”が特に長く続いたのはどんな理由があったのでしょうね。
細野 “音楽クラブ”みたいな感じだったよ。ブギーなんかをカバーをするときに、その40年代のノリを出すための練習が楽しかった。だんだんできるようになっていくプロセスが、すごくうれしくてね。
安部 どういう練習をするんですか?
細野 演奏を繰り返して、「それだ!」ってリズムができたら、みんなで固めてく。
ハマ “正解”のイメージが細野さんの頭の中にあるわけじゃないですか。それをいきなり形にできる人って、まずいないですよね。
細野 いないよ。
ハマ だから、「繰り返し練習するのが楽しかった」というのは、すごく重要な話だなと思います。
細野 学生の頃は繰り返し練習していたけど、プロになるとそういう機会がなくなっちゃうじゃない? しかも、あんなに昔の曲をみんなやらないでしょ? やったとしても、「昔の曲を今風にやる」という感覚だと思う。今風にやるから、みんな「できないことはない」という気持ちが強いと思うんだよ。でも昔の曲のノリはできない人のほうが多いわけ。やっぱり練習しないとダメだというね。
ハマ どの楽器も練習は大事ですけど、特にビートが重要なんでしょうね。
細野 そう。でも、やっぱり言葉で伝えられないんだよね。言葉にすることはできるけど、実際に演奏してみないとわからない。
安部 曲を聴き込むだけじゃ限界がありますよね。口で説明しても伝わらないし、やっぱり演奏しないとわからない感覚はある。僕は練習が苦手だけど。
ハマ あなた練習、嫌いだもんね。ジャムセッション否定派だし(笑)。細野さんもセッション自体は面白くないとおっしゃってたけど。まあ、みんな演奏のノリを体に入れたくてセッションをやってるのかもしれないね。最近のバンドでもけっこう練習するんですか?
細野 うん、してる。でもね、ちょっと放っておいてる(笑)。
ハマ 細野さんの曲を一緒にやるとき、バンドに対して「自由にやってみて」みたいな?
細野 ある程度は言うけど、みんなには「10年後が楽しみだね」と言っていて。まだ20代なんだから……。
──細野さんのプロデュース論のようなものが垣間見えて興味深いです。
ハマ はっぴいえんどやYMOも、「HOSONO HOUSE」のバンドも、全員が同じ感覚を最初から共有できていたことが奇跡的だと思うんです。もちろん会話はあるでしょうけど、“何かが至らない”とは思わずにずっとやってこられたわけじゃないですか。だから今の話、すごく興味深くて。「今は、これ以上言うべきではないな」って感覚、これまでの活動の中では出てこなかったんだろうなと思います。
細野 自分自身も、昔の音楽についてまだわからないことがいっぱいある。頭ではわかってるんだけど、いまだにバンドと一緒に演奏するときに「どうやったらうまくできるだろう」ってずっと思ってるの。練習しているとちょっと近付くときがあるから、「それ!」って言って覚えてもらうんだけど。
ハマ ハマるときはあるんですか?
細野 最近は自分のソロ中心なので、そういうことはなかなかないね。
「自分で何か気付かなきゃ」と思わせる細野先生
ハマ ビクター期の作品に話を戻すと、伊賀さんたちとレコーディングしてきた一連の作品は、ある種の“バンド力”が表れているんでしょうね。細野さんの中で「それそれ!」が増えていったから、カバーできる曲も、歌おうと思う曲も増えた。だからこそカバーがたくさんある。答え合わせになりました。シンプルに細野さんが「好きな曲をやって歌おう」という気持ちになれたんだろうなという。
細野 そうだね。楽しみながら演奏してたよ。
安部 だし、「これ以上言っても、今はこれでいいや」という余裕もすごいと思った。「違う!」とならない感じ。
ハマ 僕ら、ついついメンバーに「違う!」とか言っちゃうよね。
安部 言っちゃう。でも自分自身、正解がわからないからいつも歯がゆいんです。頭の中では理想の音が鳴ってるけど、そこにどう近付ければいいのかわからなくて。細野さんみたいに、「まだだな」とはなれなくて、「どうにか形にするんだ」となっちゃっう。反省ですね。
ハマ 僕らもそういうことありますよ。でも結局、自分もそうなんですけど、指摘される側というか、やる本人が「こうだ」とか「こうかも?」とか面白がってないと、絶対そうならないので。
細野 それはそうだよね。強制はできないよ。
ハマ 気付きというか、考えさせるためには言いますけど、今はそれほど強く言うことはないですね。力ずくの時代もありましたけど(笑)。違う方法を考えてほしいときは今でも言います。細野さんのお話を聞くと背筋が伸びますね。
細野 林立夫が僕に言った言葉が印象に残っていて。あれは「Pom Pom蒸気」のときだ。彼が“これっておっちゃんのリズム?”って言ったんだよね。だから歌詞に「おっちゃんのリズムでスイスイ」って出てくるんだよ。
安部 へえ!
ハマ それは細野さんや立夫さんからすると、“じじ臭い”じゃないけど、そういう印象だったんですか?
細野 僕はそうは思ってなかったな。でも、二十歳前後の彼の中では“おっちゃんのリズム”として理解できたわけだから。それでOKなんだよ。
ハマ&安部 あー!
安部 咀嚼できたということですもんね。なるほどな。
ハマ でも、それを細野さんが「“おっちゃんのリズム”でよろしく」と言っても、絶対にそうはならなかったわけじゃないですか。
安部 細野さんって絶対いい先生になれるよね。
──ここでは皆さんにとっての“ゼミの先生”の設定ですけど(笑)。
ハマ スパルタじゃなくて、「自分で何か気付かなきゃ」と思わせるタイプの先生だろうね。
細野 でも、僕はあきらめるほうが多いから、先生はムリ(笑)。
一同 (爆笑)。
<近日公開の後編に続く>
プロフィール
細野晴臣
1947年生まれ、東京出身の音楽家。エイプリル・フールのベーシストとしてデビューし、1970年に大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成する。1973年よりソロ活動を開始。同時に林立夫、松任谷正隆らとティン・パン・アレーを始動させ、荒井由実などさまざまなアーティストのプロデュースも行う。1978年に高橋幸宏、坂本龍一とYellow Magic Orchestra(YMO)を結成した一方、松田聖子、山下久美子らへの楽曲提供も数多く、プロデューサー / レーベル主宰者としても活躍する。YMO“散開”後は、ワールドミュージック、アンビエントミュージックを探求しつつ、作曲・プロデュースなど多岐にわたり活動。2018年には是枝裕和監督の映画「万引き家族」の劇伴を手がけ、同作で「第42回日本アカデミー賞」最優秀音楽賞を受賞した。2019年3月に1stソロアルバム「HOSONO HOUSE」を自ら再構築したアルバム「HOCHONO HOUSE」を発表。この年、音楽活動50周年を迎えた。2025年10月にアーティスト活動55周年を記念して、SPEEDSTAR RECORDSから発表したアルバム7作品のアナログ盤が再発された。
安部勇磨
1990年東京生まれ。2014年に結成されたnever young beachのボーカリスト兼ギタリスト。2015年5月に1stアルバム「YASHINOKI HOUSE」を発表し、7月には「FUJI ROCK FESTIVAL '15」に初出演。2016年に2ndアルバム「fam fam」をリリースし、各地のフェスやライブイベントに参加した。2017年にSPEEDSTAR RECORDSよりメジャーデビューアルバム「A GOOD TIME」を発表。日本のみならず、アジア圏内でライブ活動も行い、海外での活動の場を広げている。2021年6月に自身初となるソロアルバム「Fantasia」を自主レーベル・Thaian Recordsより発表。2024年11月に2ndソロアルバム「Hotel New Yuma」をリリースし、初の北米ツアーを行った。never young beachとしては2025年12月8日に初の東京・日本武道館公演を行った。
ハマ・オカモト
1991年東京生まれ。ロックバンドOKAMOTO'Sのベーシスト。中学生の頃にバンド活動を開始し、同級生とともにOKAMOTO'Sを結成。2010年5月に1stアルバム「10'S」を発表する。デビュー当時より国内外で精力的にライブ活動を展開しており、2023年1月にメンバーコラボレーションをテーマにしたアルバム「Flowers」を発表。2025年2月に10枚目のアルバム「4EVER」をリリースした。またベーシストとしてさまざまなミュージシャンのサポートをすることも多く、2020年5月にはムック本「BASS MAGAZINE SPECIAL FEATURE SERIES『2009-2019“ハマ・オカモト”とはなんだったのか?』」を上梓した。


