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日本初の大型ヒップホップイベントはいかにして生まれたのか?

「さんピンCAMP」ロゴ
2か月前2025年09月18日 11:04

今からさかのぼること29年。1996年7月7日、東京・日比谷野外大音楽堂にて日本初の大型ヒップホップイベント「さんピンCAMP」が開催された。旗振り役であるECDを筆頭に、BUDDHA BRAND、SHAKKAZOMBIE、YOU THE ROCK★、LAMP EYE、キングギドラ、RHYMESTERといったそうそうたる顔ぶれが一堂に会したこのイベントは、日本のヒップホップカルチャーはもちろん、日本のポップカルチャーを語るうえで欠かすことのできない重要なトピックと言えるだろう。開催30周年である2026年7月7日に向けて、音楽ナタリーでは「『さんピンCAMP』とその時代」と題した連載企画を実施。関係者や出演アーティストへのインタビューなど、さまざまなコンテンツを通じて、伝説として語り継がれる「さんピンCAMP」の全貌に迫る。

初回となる今回は、エイベックスの担当ディレクターとしてECDをサポートし、プロジェクトの実現に尽力した本根誠氏、スーパーバイザーとして出演者の人選やイベントの構成に携わった荏開津広氏、映像監督として当日の模様を記録した光嶋崇氏にお集まりいただき、「さんピンCAMP」の制作背景を当時のヒップホップシーンの状況などを交え、じっくりと振り返ってもらった。

取材:高木“JET”晋一郎+猪又孝 文:高木“JET”晋一郎 撮影:沼田学 制作協力:本根誠

当初のイメージは日本版「WILD STYLE」

──まず「さんピンCAMP」というプロジェクトが始まった経緯から教えてください。

本根誠 僕が社員だったエイベックス内のレーベル・cutting edgeには、アーティストとしてECDが所属していたんですね。その彼が持ってきたアイデアの1つが、「今夜はブギー・バック」のアンサーソング「DO THE BOOGIE BACK」だったんです。それを短冊CDでリリースしたら4万枚も売れて。

光嶋崇 4万枚? すごい!

本根 でも当時の4万枚は「そうなんだ」くらいの感じ。10万枚を越えないと普通のアーティストじゃないと言われた時代だから(笑)。とはいえ、立ち上げたばかりのレーベルで4万枚も売れたわけだから、すごくうれしかった。それでECDと「続けてやっていこう」と盛り上がって、彼も「次はこれをやろう」と新しい音源やアーティストを紹介してくれるんだけど、それがシングルヒットにつながるのが難しいということに、お互い気付いた。

──当時の音楽業界はシングルが売れてからアルバムを制作する流れが一般的でしたが、ECDやYOU THE ROCK★など、cutting edgeに所属していたアーティストはアルバムという単位でのコンセプチュアルな作品でこそ、アーティスト性が見える部分が強かったですね。

本根 そう。その中で、ECDが「『WILD STYLE』(※1982年に製作されたアメリカのヒップホップ映画)みたいなヒップホップのドキュメントムービーを作る企画ってどうですか?」という別軸のアイデアを持ってきて。

──「さんピンCAMP」は映画化の構想が原点にあったんですね。

本根 「WILD STYLE」のラストにニューヨークのイーストリバーパークにある野外音楽堂でライブを行うシーンがあるんです。それで「『WILD STYLE』と東京で一番似てる場所として野音(日比谷野外大音楽堂)でイベントをやりたい。そのライブをパッケージ化して、出演アーティストのコンピも作れば、cutting edgeとして予算も通るんじゃないか」と。だから、世の中の人が知ってる「さんピンCAMP」のイメージは、そのときのECDの言葉の中に全部あった。ただ「ヒップホップのコンピレーションアルバムを出します。ライブイベントもやります」という構想を会社に提示したときに、上長に「リードシングルのないコンピレーション、スターのいないイベントってちょっと考えらんねえんだけど、本根」みたいなことを言われて。

荏開津広 ラップのヒット曲がその1年半前の「DA.YO.NE」と「今夜はブギー・バック」しかなくて、両方ともある種、当時の“アイドル”が絡んでるわけで。石田さん(ECD)の「WILD STYLE」にオマージュを捧げたいというアイデアは、1993年ぐらいから、すでにシーンの一部にあった“オールドスクール回帰”みたいなムードとはリンクしてるんですが、ビジネスとして成立するヒップホップという前例は時代的にないわけです。

光嶋 でも、1996年5月にはBUDDHA BRANDが「人間発電所」のCDシングルを出してるし、その中には彼らがSHAKAZOMBIEと組んだユニット、大神の楽曲「大怪我」も入ってる。それらがリードでいいですよね。

本根 僕ら的にはそうなんだけど、会社的にはまだ「なんなのこのグループ?」みたいな話で、会議で炎上ですよ。ただ、当時のエイベックスは売り上げも順調だったし、予算としては全然問題なかったから、「まあ、やっておけや」ってことになって一応予算は通ったのね。その段階で、映像監督としてタカちゃん(光嶋)の名前はもう出てた。

光嶋 へー、初めて聞きました。

本根 ECDが「スチャダラパーのBoseの弟で、光嶋崇くんという子が、映像制作をやってるんですよ」と教えてくれて。

光嶋 その話をもらったのは95年だったと思う。「さんピンCAMP」の制作が始まった頃、Boseくんと一緒に住んでたんだけど、隣の部屋で「サマージャム'95」を作ってたのを覚えてますね。

手探り状態でプロジェクト始動

──光嶋さんはヒップホップグループTONEPAYSのメンバーとして、ECD制作のコンピ「CHECK YOUR MIKE」に「苦悩の人」を提供するなど、ECDさんとはアーティストとしてのつながりはあったと思うんですが、映像作家としてのつながりはあったんですか?

光嶋 僕はスペースシャワーTVにタケイグッドマン(※ビジュアルディレクター。スチャダラパー、TOKYO No.1 SOUL SET、小沢健二らのミュージックビデオやCDジャケットのアートワークを手がけている)のアシスタントとして潜り込んで、そのままADとして働いてた時期があるんですよ。当時は自由に機材も使えたし、編成にいい先輩がいたから、自分が作った番組をオンエアしてもらえたりすることもあった。スチャダラパーのコント企画とかが通ってましたからね。今だったらありえないですよ(笑)。

本根 そうだよね。

光嶋 ただ、当時のスぺシャにはヒップホップの番組がほとんどなかったんです。タケイグッドマンが撮ったBeastie Boysのジャパンツアーを追いかけたライブドキュメンタリー「100000000% BEASTIE BOYS」があったぐらい。

──90年代中頃のスペシャで放送されていた藤原ヒロシ司会の「BUM TV」、脱線3司会の「渋谷派パンチ」ではラッパーのライブがありましたが、ヒップホップ番組ではなかったですね。

光嶋 そこでヒップホップ番組の企画を出して通ったのが、ECDとTOKYO No.1 SOUL SETの渡辺俊美くんがMCを務めるヒップホップのコンテスト番組。それが93年くらいに作った「CHECK YOUR MIKE CONTEST」でした。

──「CHECK YOUR MIKE」はコンテストとライブという形態で行われたイベントとして有名ですが、テレビ版があったんですか?

光嶋 そう。コンテストに届いたデモテープをECDがチェックするシーンを撮って、そこで聴いたのがキミドリだったり。そういう流れでもECDとはつながりがあって。

本根 それで「さんピンCAMP」の映像ディレクターとしてタカちゃんを指名したのかもね。

──ライブフィルムではなく、“ドキュメントフィルム”を制作したいというオーダーは、光嶋さんに対しても最初からあったんですか?

光嶋 そうですね。「ライブ映像じゃなくて映画を作りたい」って。「さんピンCAMP」の映像には六本木ヴェルファーレで行われたブッダのリリースパーティも収録されていて、ECDとSHAKKAZOMBIEがエレベーターに乗るシーンで、一緒にいたHACがカメラ目線で手を振るじゃないですか。それに「ドキュメンタリーだって言ってんじゃん!」って注意した記憶がある(笑)。

荏開津 タカちゃんだって、いきなりドキュメンタリー映画を撮れと言われたって、今までそういう作品を作っていたわけじゃないんだから当然戸惑うよね。僕もECDから「さんピンCAMP」の脚本を書いてみないかと言われました。でも、予算や撮影期間とか具体的な話はないし、どういう作品かの話も具体的に進まない。ずっとクラブにいて、DJをやってて、ヒップホップが好きで、その中で、モノを書けそうな感じだったのが僕。それだけで、当然だけど映画製作なんて経験はなかった。だから映画製作のプロは誰もいなくて、みんなヒップホップが好きで、ただただヒップホップと思ってやってただけなの。

光嶋 ヒップホップを好きなやつ自体の数も少なかったですからね。

荏開津 あの頃の東京でヒップホップに実際になんらかの形で関わっていた人は、数百人もいたかどうかというのは実感でした。ダンスしてた人は多かったと思うけど、クラブでラップ、DJをやってた人となると……。

本根 でも石田さん(ECD)は荏開津さんを尊敬していましたよ。「手詰まりなところもあるから荏開津さんに相談しました」って。ただ石田さんって無口じゃないですか。

荏開津 石田さんは僕には極端にシャイで無口でした。それで「さんピンCAMP」は苦労したんだから。2人で会っても打ち合わせにならないんだもん(笑)。ただ、それこそ、そのずっとあとに石田さんの思い出の記を読んだのですが、彼が劇団にいた頃はずーっと一緒に仲間と合宿みたいな暮らしをしてたと知って、そういうことがやりたかったのかなと思ったことはあります。僕の付き合い方が、けっこう冷たかったかなと申しわけなく思います。

本根 石田さんと荏開津さんが打ち合わせしても、「荏開津さんとこういうことを話したから」という報・連・相が僕にはまるでない。だから僕と荏開津さんが会っても、お互い石田さんとどういう関わり方をしているのかわからない期間が数カ月あったりして。

荏開津 そうそう。「今日エイベックスに行ってこれぐらいのバジェットを仕込んできたぞ」という話も僕は聞いてない(笑)。当時、石田さんちって和室だったじゃん。

光嶋 別にいいじゃないですか(笑)。

荏開津 和室なのはいいんだけど、畳に直接レコードがブワーッと並んでるの。それで打ち合わせに行くとレコードの話ばかりで、全然仕事の話にならない。

──(笑)。

荏開津 石田さんは、その頃はほかに仕事してたの?

本根 「DO THE BOOGIE BACK」が売れて少額ながら安定したギャラを出せるようになって、それで「バイトを辞める」と宣言するんだけど、それまで彼は力仕事をやってましたよ。

──「さんピン」の費用の一部も、ECDさんが舞台の設営仕事で稼いできたという話もありましたね。

本根 タカちゃんも予算の話とか聞いてなかった?

光嶋 そうですね。

本根 俺は伝えてたんだけどね(笑)。ただ、石田さんから「この日、花火大会で撮影してきます」みたいな共有はあった。エイベックスのバジェットで撮影するから、会社には撮影の状況を報告するという認識はあったんだろうね。

映像に込めた社会性

──花火は映像化された「さんピンCAMP」のオープニングのシーンですよね。あのシークエンスにはどういった意味を込めていたんですか?

光嶋 自分も含めて、ヒップホップ関係者って普通じゃないやつらの集まりなんですよ。普通じゃないからラップをやったりDJをやったりしてるけど、普通の人たちとも一緒に生活をしている。だから、B-BOYの格好をした人たちが、超普通の人たちが集まる多摩川の花火大会にいるという状況を映すことで、それを表現したかったんですよね。

荏開津 そうなんだ。あのオープニングの花火の意味を説明してもらったのは初めてです(笑)。何か日常にある祝祭を残しておきたいとは理解していましたが……弁解になるかどうか、打ち合わせにはならないから、撮影が進んでいくうちに、自分は撮影場所には行って、状況を把握していくこと、そこでアドバイスをするということに徹した感じです。

光嶋 その次の異臭騒ぎのシーンは、前年の1995年に起きた地下鉄サリン事件を想起させている。荏開津さんと僕とECDで、渋谷のクラブで撮影した帰りに、異臭騒ぎに遭遇したんですよ。

本根 あれは偶然に撮れたんですよね。

光嶋 そうです。だから「今の世間はこういう状況なんだよ」というシーンで始めたかった。その状況映像が、10年後、20年後に資料になればいいなと思ってたし、やっとその伏線回収を今できていて。

荏開津 阪神・淡路大震災もあったし、僕はその光景を見ながら、ディストピアSFみたく「ああ、(世界は)もう変わってしまった」「自分がどうなるかわからない」とは感じていました。通勤時間の東京の地下鉄に毒ガスが撒かれたことのショックは本当に大きかった。

──世紀末的な気分というか。

荏開津 そういう意識的な部分は、石田さんと気が合ったのかな。

本根 ECDは「サイレンの意味がオウムの前と後では変わってきてるからこそ、赤いサイレンを入れたくなった」と話していて。

──「周囲に対する警告灯」だったサイレンが、「社会全体に警戒を与える存在」になった、みたいなイメージだったんでしょうか。

荏開津 なるほど。「日本の政治や経済が変わる中で、日本のヒップホップが注目されるようになったなら、それをドキュメンタリーとして出そう」という意思の疎通は、僕と石田さんの中では取れてたんです。僕も「日常を撮影することでこの国の政治とか社会の雰囲気を反映させよう」と石田さんにはっきり言ったのを覚えてる。音楽業界はいい感じなんだけど、日本経済自体は91年くらいにバブルが弾けてるわけじゃない? その状況は少しでも込めたかった。それに、石田さんは僕らよりも歳上で、学生運動を見た記憶とか、当時住んでいた中野の周りに過激派のお兄さんがいたことを伝記に書いてるように、若者と政治が近くにあった状況を子供の頃に見ていた。だから、社会意識は持ってたし、それを作品に込めたいという話はしていて。

本根 ECDというアーティストは、もともと社会性を内包してたんだけど、エイベックス時代は他人の金でレコーディングしてるという意識があったから、その社会性をある意味では封印してたんだよね。だからエイベックスを抜けたあとは、サウンドデモなどの社会活動が多くなっていったんだろうし。本編の話に戻ると、ブレイクダンスとかの映像が入ってくるのもECDのアイデア?

荏開津 そうですね。ヒップホップの四大要素(MC、DJ、グラフィティ、ブレイクダンス)を入れたいというのは最初から話してた。

本根 あれは「HIPHOP最高会議」(※1990年代に代々木公園で行われていたブロックパーティ。オールドスクール色が強かった)の代表、千葉タカシさんの協力だったと思います。ECDが「野音の外でちゃんとダンサーを踊らせるから」と言っていて。

光嶋 日比谷駅の周辺でグラフィティやダンサーを撮ってくれた1人が、映像作家のベン・リスト。

本根 ベン・リストさんは誰が呼んできたの?

光嶋 ベンさんは僕だと思いますね。外国人の視点を入れたいという理由で。荏開津さんに紹介してもらったのかな?

荏開津 ベン・リストは僕と一緒にって言ったらあれだけど、LAMP EYE「証言」のビデオを作った縁があって、その流れで紹介したんだと思う。

MASS対CORE

──映像を順に追っていくと、「MASS対CORE」のライブ映像が収録されています。

光嶋 タワーレコード渋谷店のインストアイベントですよね。あれはレコ発かなんかでしたっけ?

本根 ECDのアルバム「Homesick」(1995年3月1日リリース)のレコ発かな。

光嶋 そこで「MASS対CORE」をECDとYOU THE ROCK★が披露してたら(注:TWIGYの自伝「十六小節」によると、TWIGYも舞台袖にいたという)、YOUちゃんが客席にダイブして、盛り上がりすぎてパフォーマンス中に音が切られちゃうという。あれはタワー側が切ったの?

本根 そうそう。そもそもイベント前からスタッフとアーティストが睨み合う感じでした。その空気の中でYOU THE ROCK★がパカーンってダイブしちゃって、音が切られた(笑)。今にして思うと渋谷のど真ん中にあんな大きなCDショップを作ったばかりで、あのインストアイベントをやらせてくれたのは感謝ですね。

荏開津 「Homesick」のインストアでタカちゃんがカメラを回してるってことは、その頃には「さんピンCAMP」の製作も決まってたってことだよね?

光嶋 決まってました。「MASS対CORE」は、YOU THE ROCK★、TWIGY、ECDがラッパーで、プロデュースが高木完さんでしょ? この座組はヤバくないですか? 完ちゃんがプロデュースして、あのトラックを作ったというのはどういう流れだったんですか?

本根 ECDのオーダーだったと思いますね。それまでのヒップホップのレコーディングって、スタジオでわちゃわちゃトラックを作って、「トラックできました!」「じゃあ歌入れです」みたいな感じだったんですよ。

──アイデアはすでにあったとしても、トラック制作の実作業はスタジオでやっていたということですね。

本根 でも高木完さんは、スタジオに来た段階でトラックのプリプロダクションを終えていて、「トラックはこれです。じゃあ歌入れやりましょう」っていう感じでした。そこで「普通のやり方をちゃんとできる人がやっと来た」と思った(笑)。

荏開津 でもそれは、それだけライミングやラップの進化が速かったということもあると思いますよ。機材を買って、使い方をマスターするのに間に合わないぐらい、ラップのほうがすごい勢いで進化していたわけで。

──進化するラップに合わせるには、スタジオでラップと並行してトラックを作る必要があった。

荏開津 だってキングギドラ「空からの力」、BUDDHA BRAND「Funky Methodist / ILLSON」、MICROPHONE PAGER「DON'T TURN OFF YOUR LIGHT」、RHYMESTER「EGOTOPIA」、そしてさんピン派ではないけれどスチャダラパー「5th WHEEL 2 the COACH」……繰り返し言ってますが、日本語でのラップの試みはそれ以前にあったにせよ、Kダブシャインの押韻方法の始まりとさんピン世代があって初めて日本語のラップの完成を見たのではないですか。そのギドラは言うまでもなく、ブッダの英語と日本語のちゃんぽん、ペイジャーのサウンドプロダクションとアティチュード、ライムスの日常のヒップホップイズムの探究などなど、日本語でのラップを完成させたのはあの時代のラッパーだと思います。「亜熱帯雨林」や「暗夜行路」というイベントがフライヤーのみでお客さんでパンパンになっていて、もう亡くなってしまったマンガ家・中尊寺ゆつこさんはクラブカルチャーが大好きで彼女に「ヒップホップのイベントに行きたい」と言われて、雷(※YOU THE ROCK★が主催していたイベント「Black Monday」の出演者によって結成されたヒップホップユニット)のイベントに一緒に行ったのを思い出します。当時は、局地的ではあるけど、そうやってようやく日本語で自在に表現できるようになったヒップホップに対する注目度と熱気がどんどん高まっていた。お客さんも、渋谷に新しくできたヒップホップ系の服屋さん──その多くはアーティスト自身が始めていたりするんだけど、そういう服屋で買ったファッションを身につけて、レコードをガーッて買ってるような子たちでした。でも、そういう光景はメディアにもほとんど出てないし、まだ当時の音楽業界のおじさんたちは気が付いてない。彼らはヒップホップにハマったことがないから。

光嶋 LAMP EYEの「証言」も大きいですよね。

──「証言」は明確にハードコアヒップホップを体現した曲だったし、ミュージックビデオが作られたのも大きかったと思います。僕もスペシャで放送されたのを観たのが「証言」とのファーストコンタクトだった気がします。

本根 「証言」のMV制作にはECDも絡んでいるんですよ。ある日、石田さんから「LAMP EYEにすっごくいい曲ができたんですよ。でもDJ YASくんから『アナログを作る予算がない』って相談されたから、この間エイベックスからもらった印税を全部、彼に貸しました」って言われて。

荏開津 偉いよ。

本根 その流れがあったから、「さんピンCAMP」に声をかけたら、雷のメンバーがワーッと集まってくれて、みんなで「証言」をやってくれたというのもあると思うんですよね。

光嶋 なるほどねー。

本根 個人的にも、LAMP EYEはヒップホップに対する感覚が違うと思いましたよ。当時、六本木にドゥルッピードゥルワーズってクラブがあって。

荏開津 DJ KRUSHさんがDJやってた店ね。

本根 そう。そこにタダ券をもらったかなんかで遊びに行ったら、お客さんがいわゆるユーロビートじゃない、ニュージャックスウィングに乗って、ボビー・ブラウンみたいなダンスをしてるんですよね。それを見て「これまでのディスコとは流れが変わってきたな」と感じていたら、後日YASくんから「LAMP EYEのメンバーはみんなそこの出身なんですよ」と聞いて。

荏開津 それこそ、RINOさんやGAMAさんもダンサーですからね。

本根 「そういう人たちが自分でリリックを書いて、ラップをしたらこうなるんだ。それってすげえ正しいことじゃん」と思ったんですよね。石田さんもLAMP EYEに魅力を感じたからアナログ作りをサポートしたんだと思う。

BUDDHA BRANDをスターに

──「MASS対CORE」のライブシークエンスに続き、BUDDHA BRANDの帰国シーンが挿入されます。

光嶋 BUDDHA BRANDはどのように企画に絡んでいったんですか?

本根 ちょっと余談みたいになるけど、当時のエイベックスは稼ぎのメインがパラパラで、夕方まで会社の会議室はパラパラの振付場みたいになってたんですよ。エイベックスの社員がギャルを呼んできて、その子たちにパラパラの新曲と新しい振付を夕方まで教えて、そのまま街に繰り出してクラブで踊ってもらうという広告戦略があった(笑)。

光嶋 すごいな(笑)。

本根 僕とECDはそれが終わるまで待って、夜に会議室でいろいろ相談するのが日常だったんだけど、そこで彼が持ってきたデモに、BUDDHA BRANDの「Funky Methodist」があったんですよね。その音源を聴いてすげえなと思っていたら、ECDが「DEV LARGEってやつがトラックを作っているようなんですけど、NIPPSというやつは大滝秀治にそっくりなんです!」「じゃあ絶対やりましょう!」って(笑)。

光嶋 ハハハ。僕は23、24歳のとき、時期でいうと93~94年ぐらいにCISCOというレコード店で働いていたんですが、DEV LARGEはニューヨークで買い付けをしてくれていたんです。あとキミドリのクボタタケシくんも一緒に働いていました。

本根 ああ、クボタくんもCISCOの店員でしたもんね。

光嶋 そうそう、僕が誘ったんです。当時はMUROさん、ECD、荏開津さん、藤原ヒロシくん、NIGO……みんなCISCOに来てましたね。

本根 で、「人間発電所 (ORIGINAL '95 VINYL VERSION)」のアナログを1枚切った頃には、cutting edgeのディレクターや周りの友達にも「BUDDHA BRANDは人気になる」という感覚があった。そしたらある日、石田さんが「タカちゃんとの映画なんですけど、ハイライトシーンのトリをブッダにします」「cutting edge的にもブッダをスターにしたほうがいいじゃないですか」って言ってきて。それはもうECDの中で決定事項だった。

荏開津 それをどうかと思う反面、ブッダの「Funky Methodist」、そして「人間発電所」という2曲を続けてクラブヒットさせたリアリティというか、説得力は今で言う「パない」感じだったとは振り返って思います。チャートではなく、クラブに行くと絶対プレイされる。しかも一晩に何回もかかったりするぐらい、東京の特にフリーソウルとかの渋谷系の流れのパーティでかかっていたし、英語 / 日本語のちゃんぽんのリリックの英語パートがただの単語挿入だけでなく、当たり前ですが、きちんと英語のセンテンスやフレーズになっているわけで、ニューヨークで活動していたという側面のリアリティも曲として感じさせたわけです。

本根 石田さんは、レーベルが自分にかけてもらってるお金を自分の作品ではペイバックすることはできないけど、ブッダをスターにすればプロジェクト全体が潤うと思ったんじゃないかな。俺はECDが大好きだから賛成したけど、当時はすごい反感を買ったと思う。

荏開津 それはある程度あるはずです。自分もどうかと思っただけでなく石田さんには「大丈夫ですか?」程度は言ったと思います。ブッダの帰国のシーンを空港まで撮りに行こうと言われたときは正直驚きました。石田さんの張り切ったアイデアなのに、CQさんとかが当日撮影がややダルいとぼやいていたのも面白くて覚えてます(笑)。彼らの扱いが大きいのは撮影の途中で出てきた。92、93年のヒップホップシーンは小規模ながら、90年デビューのスチャダラを追いかけるように少しずつクラブでのパーティが始まっていた。94年の奇跡的なラップ曲のチャートインを横目に、彼らは苦汁を舐めながら現場の規模を大きくしていってたわけです。その流れで日比谷野音で合同イベント、「WILD STYLE」の再現をやるならどういうふうになるんだろう?と、みんな期待する。

──普通に考えたら主催のECDさんがトリになりますよね。

荏開津 「WILD STYLE」にならえば、出演したラッパーたちが「Good Time」の2枚使いでセッションするような、誰かを中心に置かない形にもできたわけで。最近改めて気がついたけれど、物理的に撮影ができなかっただけで、石田さんの頭にはブッダが当時滞在していたニューヨークから日本のヒップホップのために帰国するという物語がもっと明確にあったんじゃないかなと思います。

──そこであえてトリをブッダに置くというのは、やはり特別扱いですよね。映像の中でも「俺たちがビッグバード、次の週の小鳥(※Little Bird Nation:スチャダラパーを中心としたヒップホップクルー。通称LB)とはちょっと違うリアルなメンツ」とDEV LARGEさんがフリースタイルしていますが、あれはラジオ番組「HIP HOP NIGHT FLIGHT」への出演シーンですか?

光嶋 そうですね。

荏開津 「HIP HOP NIGHT FLIGHT」は、中尊寺さんがヒップホップにハマって、「私がTOKYO FMのお偉いさんに掛け合ってヒップホップの番組を作る!」って、自らスポンサードするような形で始まった番組なの。

──あのDEV LARGEさんのフリースタイルと「証言」のYOUさんのヴァース、「さんピンCAMP」の翌週に同じく日比谷野音で「大LB夏まつり」が行われたことなど、さまざまな要素が重なったことで「さんピン勢とLB勢は抗争状態にある」といった、今から考えればあり得ない憶測も広がっていました。

荏開津 「大LB夏まつり」はどういうふうに決まったの? これはタカちゃんのほうが知ってると思うけど。

光嶋 たまたま近い日程で入っていただけだと思いますよ。

──SHINCOさんとタケイグッドマンさんに伺った話だと、スチャダラパー「偶然のアルバム」のレコ発イベントだったはずが、アルバムが完成しなくて急遽「大LB夏まつり」になったと。だから日程が近かったのは完全に偶然だったようです。

本根 「さんピンCAMP」もエイベックスのコンサート部門の担当者が会場抽選に応募して、偶然当たったのが7月7日だったんです。

──野音はいろんなプロモーターや制作会社が抽選に応募して、それぞれが当たった日程をイベントに分配していく方式が基本だから、ぶつけようと思っても難しいんですよね。

荏開津  だけどすごくない? それだけ偶然が重なるのも。

光嶋 「MASS対CORE」みたいな図式が盛り上がったピークに、「さんピンCAMP」と「大LB夏まつり」がぶつかったという。

──だからその巡り合わせも奇跡的だったと思います。

<中編に続く>

本根誠

1961年大田区生まれ。WAVE、ヴァージンメガストアなどCDショップ勤務を経て、1994年、エイベックスに入社。cutting edgeにてディレクターとしてECD、東京スカパラダイスオーケストラ、BUDDHA BRAND、SHAKKAZOMBIE、キミドリ、Fantastic Plastic Machineなど、さまざまなアーティストを手がける。「さんピンCAMP」では、主催者であるECDを担当ディレクターとしてサポートした。独立~東洋化成を経て現在、再びエイベックス勤務。

本根誠 Sell Our Music _ good friends, hard times Vol.9 - FNMNL

荏開津広

東京生まれ。執筆家 / DJ / 立教大学兼任講師。東京の黎明期のクラブ、P.PICASSO、MIX、YELLOWなどでDJを、以後主にストリートカルチャーの領域で国内外にて活動。2010年以後はキュレーションワークも手がける。「さんピンCAMP」では、スーパーバイザーとしてコンセプトや構成に携わった。

荏開津広_Egaitsu Hiroshi(@egaonehandclapp) | X
荏開津広_Egaitsu_Hiroshi(@egaitsu_hiroshi) | Instagram

光嶋崇

岡山県出身。アートディレクター / 大学講師。桑沢デザイン研究所卒業後、スペースシャワーTV、レコードショップCISCO勤務を経て、ドキュメンタリー映画「さんピンCAMP」を監督。のちにデザイン事務所設立。スチャダラパー、MURO、クボタタケシ、かせきさいだぁ、BMSG POSSEなどのデザインを手がける。

designjapon.com
光嶋 崇(@takashikoshima) | X
光嶋 崇(@takashikoshima) | Instagram

※文中のアーティスト表記は、原則的に「さんピンCAMP」開催当時に沿っています。

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